多様性ミニマリストぴの子の日記

多様性ミニマリストの日常日記です

母の死と乗り越えられなかった自分


雨音で眠れないので前回の続きから、中学3年まで母親の彼からの暴行が続いたけど、高一になってとうとう母親が別の彼氏を作ってその彼は追い出す事になった。やっと落ち着いたけど新しい彼氏もろくでもない男で、母親が好きになる男はみんな変な男性にしか思えなかった。家には上がり込まなかったけど今度は母親は帰ってくる事が減った。私は夜学に通って昼間は働いていたから母親に会うことがめっきりなくなった。夜学校に帰ってきても1人きりの時間が多かった。久しぶりに帰ってきても、立てないぐらい酔っ払っていて、周りに迷惑ばかりかけていた。私はものすごく恥ずかしくてしかたなかった。母親とも話せばケンカになるからしゃべる事もなかった。私は重大な事になっていたことに気がついていなかった。母は重度の糖尿病にかかっていて、緑内障の手術を2回していたこと、腎盂炎でオムツが外せない事、足が壊死していた事、私は高校生になってから初めて知った。注射器もどうせまた薬物に手を出したのかとしか思えなかった。その注射はインシュリンだった事。私はバカだった。母親の大変さを知らないまま放置していた。ケド母は家に帰ってくることは本当になくなっていって、最後にあったのは高校3年の春今でも覚えている、早朝玄関のベルがなって下の階の人が酔っ払った母を連れてきた。すみませんと頭を下げて、ふらふらの母を布団に寝かせた。酔っ払っていても私は帰ってきてくれたのが嬉しかったから抱きしめた。母はすごく嫌がっていた。それと、いつもと様子が違う、うちと下の階を間違えたりしないし、なんだかぐったりしている。私は仕事もあったから心配だったけど、行く事にした。仕事場についても母親の事が気になって、職場の人に相談したら直ぐに帰る様に言われた。

帰った時には意識が朦朧としていて、しゃべれそうになかった。直ぐに担当しているお医者様を呼んだ。透析をしないと命の危険があると言われ救急車で病院に運ばれた。姉や兄も呼んだけど、後で行くしか言われなかった。

透析室に入って受ける母親の姿は人造人間の様で管がたくさん繋がっていて見ていられない姿だった。悲しくて、悲しくて、もっと早く気づいていたら、そんなことばかり頭に浮かぶ。その後、姉や兄が来てくれて、余計な母親の彼氏まで来ていた。何時間透析したのだろう辛いかったろうに。終わった後もぐったりしたままの母で、呼んでも返事がなかった。看護師さんに何かあったら連絡しますと言われ、私達兄弟は帰ることにした。面倒なのが彼氏でずっと居たいといいはって聞かない。兄がなんとか止めて帰らせた。帰って疲れ寝ていたら深夜に姉からかかってきた。お母さん危篤だから早く来て、

私は急いで病院へ向かった病室について容態が急変していた。私は頭が混乱しているのと疲れで放心状態に近かった。母は亡くなるなんて思いたくなかったけど、2時間後息を引き取った。

私は何がなんだかわからない。その後も時間が早く過ぎてゆく、あっという間に棺桶に入れられてよくわからない書類やらなんやら書かされて理解不能のまま火葬場に運ばれ納骨。骨は薬物のせいもあって掴めなかった。ほとんど片付けてもらって、お寺で供養してもらったけど、早すぎて早すぎて涙が出ない。疲れて疲れたしか思えなかった。終わった後も1人の部屋で母が来ていたコートを抱きしめて、なんで1人にするの?と何度もぶつぶつぶつぶつ泣きながらコートを濡らした。18歳の私の器には大きすぎて、心には空虚感があって。母が居なくなって私はすごく辛かった。私にとっては毒親で女として生きることしか出来ない親だとしても心の底で愛していたと思う。愛されたかったし、もっと母の味方でいたかったと。いまでも後悔しています。親孝行もしたかった。孫の顔さえみせれなかった。悔しくて、辛かった。

また長くなってしまったけど、どんな家族でも家族。どうか皆様も家族を大切にしてほしいとおもいます。


長々と見てくださってありがとうございます。

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